◆あすかの自己紹介◆

あすかを紹介します

更新日:

このプロフィールを、ご覧いただきまして
ありがとうございます。

いきなりですが、わたしは肢体障害者です。

医師には『臼蓋形成不全症
(きゅうがいけいせいふぜんしょう)』と
診断されました。

これは足の付け根の骨の病気で、
今でもひんぱんに激痛が走ることがあり、
その時には歩くこともままなりません。

それはたとえ家の中であっても。

つまり、家事一般を行うことすらも
難しくなるということ。

ひどい時には、もう動けないんですよ。

痛み自体は、日常消えてしまう
ことはナイので、
気が付くと無意識のうちに
歯を食いしばってます。

おかげで年中肩こり><
そして頭痛を頻繁に併発っっ

こんな状況なので、外で働くことも
ままなりません。

そして、わたしは3人の子どもを
授かりましたが、
3人とも「発達障害」であることが判明。

どんな母親であろうとも、
子育てに苦労しない母親はいませんが、
わたしの場合は、特に先に述べた病気
もあり、その苦労は
並大抵なものではありませんでした。

ただ、わたしがこの状況をみなさんに
知ってほしかった理由は、
同情して欲しいわけでも、
悲壮感を漂わせたかったわけでも
ありません。

もちろん、わたしが最上級の悲劇を
抱えているなんて思っていません。

でも正直に告白すると、
実際にそう考えていた時期もあります。

わたし以上に悲惨な人間はいないんじゃ?

どうして、こんな目にばかりあうのか?

それを恨み、悲しみ、凹み、
自殺を考えたこともあります。

でも、一番お伝えしたいのは
それすらも乗り越えられる
ということ。

わたしは、いま生きています。

わたしは、無理やりでも
顔を上げて前を見ることが大事だと
思っています。

どんなにつらくても下を向いていては
道は歩けません。

それを、あなたにお伝えしたかった
んです。

このブログは、その思いを伝えたくて
運営しています。

特に、わたしと同じ主婦の方々に
お伝えしたいと思っています。

あなたにお届けしたいのは、笑顔です。

このブログで
「お母さん」として「妻」として、
そして何よりも「女性」として
素敵な笑顔を、いつも浮かべていて
欲しい。

それが、わたしの切なる願いです。

それでは、わたしの過去の体験を
正直につづっていきたいと思いますので
少し長くなってしまうかもしれませんが、
おつきあいいただければ、うれしいです。

◆少し記憶も曖昧な時代

わたしは、昭和47年6月に2人姉妹の
妹として、名古屋市で産まれました。

家族は父母と祖母を含めた
5人家族でしたが
父には大きな欠点があったんです。
実は、父は酒飲みで幼い頃から
毎日酒を飲んでは
母親にきつく当たるのを見て育ちました。

そんな幼少期を過ごし
父の影響もあって、人見知りで
自分の意見を言えない子になりました。

私が小学校へ上がって最初の誕生日に
母と知らない男性と私たち姉妹を連れ
どこかの公園らしき場所に
遊びに行きました。

「えっ?誰この人…」
「何で、お父さんじゃないの…?」
素朴に、そんな風に感じたのを
今も覚えています。

ちょうどその日は日曜日で、
父も家にいたのですが、
家族で出かけたのではなく、
知らない男性。
帰宅後父親はとても怒っていました。

そしてさんざん殴られた母は
逃げるようにして
家を飛び出して行きました。

それ以来、父の母親(祖母)と父、
私たち姉妹の4人生活になりました。

母が出て行った時のショックで
家以外で数ヵ月の間は
喋ることもできず、話そうとすると
涙がこぼれてしまう毎日でした。

父は生きていくための必要最低限の
お金を家に入れれば、
後は自分の遊ぶお金だけ稼ぎ
平日でも昼まで寝ているような生活。

祖母はパートに行き、
朝6時には家を出て夕方4時頃に
帰宅していました。

ですが、父親を避ける生活をしており、
自宅に帰ると必要以外は
自分の部屋から出てこない。

当然夕食を一緒にとることも
ありません。

姉妹で学校から帰ると洗濯、掃除、
夕食の準備に買い物をする毎日でしたが
姉は反抗期になり
家事を一切しなくなってしまったのです。

家事をしなければ殴られる
恐怖心から、私が一切を背負って
毎日家事をする毎日。

夜は毎日飲み歩いて父親がいないので、
中学生の頃より
居酒屋でバイトしたりして
お小遣いを作りました。

何度か深夜徘徊で警察に
保護もされました。
警察が自宅に電話をしても
迎えに来ない父でしたので
気をつけて帰りなさいと
その場で釈放。

高校も1年の夏休みで家を飛び出し、
そのまま退学してしまいました。

家を飛び出したことで、自分の自由を
手に入れたと錯覚をした時期です。

 

◆あんなに嫌いなはずだったのに…

高校中退後、住み込みで寿司屋で働きましたが、
大きなケガをしてしまいました。

それがもとで自宅に戻ったのですが、
ケガが治るとすぐに
朝9時~深夜3時まで営業の
喫茶店で働くことに。

喫茶店で働きながらも
休日や夕方上がりの日を利用して
スナックなども掛け持ち。

17歳で暴走族の総長をしていた人と
友人を通して知り合い
フラフラしている私を見てくれて
叱ってくれたのを、愛情と思い込み
結婚、そして出産。

彼は何でも言うことを聞く人形が
欲しかったようで、口答えをし
言うことを聞かないと殴る。

そして子どもが1歳になる頃には
彼女ができたと平然と言うように。

殴られ続け体も心もボロボロになり
心身ともに疲れ果て、
子どもが1歳半のとき離婚。

その後
昼間は手打ちそばのお店で働き、
夜は名古屋の繁華街で水商売。

ですが、
昼間は保育園、夜のお店の間に託児施設

これは多重保育といって
認められない行為なのです。

それが見つかってしまい
夜の水商売1本だけで生きていくことに。

水商売のお店では、バイトも入れて
総勢200名以上在籍しているような
少し大き目のお店でした。

そして、バブル崩壊寸前までは
お客さんからのチップも含めて
毎月100万近く稼ぐことができていたので、
毎月半分は貯蓄したりもできたんです。

ところが、バブル崩壊後
どんどんお給料は下がり毎月40万程度。

それでも昼間働くより、
ずっと良かったので
子供が小学校入学までは続けていました。

そんな中、1つの出会いが。

お店にお客様として友人と来ており
とても気を使ってくれる人でした。

お店で仲良くしていた女の子と
彼と一緒にいつも来ていた友人が
お互いに惹かれあうようになり

なぜか私たちも引っ張り出されて
戸惑いながらも、子連れでいつも
5人でご飯を食べたり遊んだりと
楽しい時間を過ごしました。

普通のお客様は下心があるのか(?)
「子どもは預けて遊びに行こう」と言いますが

この彼だけは、いつも
「子どもも一緒に」と言ってくれ
他の人とは違う何かを感じていました。

離婚後も時々、
離婚した前夫が訪ねて来ては殴られ・・・

休んでばかりいられないので、時折は
我慢してお店にアザだらけで出勤。

彼は一度お店を出たかと思ったら
薬局まだ開いてたよと言いながら
包帯や湿布などを手に戻ってきてくれ
手当をしてくれました。

前夫が子どもを預けている託児所に
訪ねてきたと託児所から
連絡をもらったときも、

お店を抜け出せず困っていると
「俺が行く」と言ってくれ
即座に迎えに行き、仕事が終わるまで
子どもを見ててくれることも。。。

彼の優しさに、感謝の気持ちと
一緒にいると安心感を
感じるようになりました。

子どもが2歳になる前に知り合ってから
何年もずっと一緒にいてくれて
支えてくれて、いつの間にか

子供と彼の間で
「いつ結婚しよう」という話になっており
迷いに迷った挙句
苗字が途中で変わると子どもが
不便な思いをするから
小学校に入学する前に入籍ということに。

そして入籍を期に繁華街を出ることに。
ところが、その一方で
私は、ある不安を抱えていたのです。

それは何かと言うと、子どもの問題です。

子どもはずっと問題児扱いを
されていました。

児童相談所で脳波も調べてもらっても
問題なしという結果でした。

私は水商売をしていて
寂しい思いをさせたことや、

母親の記憶がほとんどないことが
母親として不出来なのではないか?

母親って何?

母の存在って?

母性が溢れ出るってどういう意味?

私は母親失格なの?

と自分を
責めたりもしました。

しかし、同じような環境で子育てを
している家庭でも
こんなに問題行動をする子は
周りを見渡してもいなかったので、

解決するためにと原因が知りたくて
育児書ばかり買いあさっていました。

心のどこかで
「問題なし」ではなく
何か病気であってほしいと

何かの病気であれば、問題を
起こしても理由ができるから

そうすれば自分は、この悩みから
救われるのではないか?

心のどこかで思っていたかもしれません。

この子に振り回される生活が
ずっと続いたため

2人目など考えられなかったのですが、
主人の願いであったこと
下ができたらしっかりするかもしれないと
考えもあったことで、2人目を産みました。

ですが、全く変化もないままだったので
小学生の頃からずっと
児相のお世話になっていました。

主人も、すぐいなくなってしまう子どもを
探すために仕事を早退するなどを繰り返し、
すぐにクビになってしまい
長く続かない不安定な生活。

そんな中、近所のスナック開店の話があり
長年水商売をしていた私に
「手伝って欲しい」との言葉かけが
あったので働くことにしたのです。

ところが、そんなある日
思いもよらない人からの電話が。

それは、長年離れていた父親からです。

病院に行くのに家族が必要だと連絡があり、
同行することになったのです。。

そこで、なんとガンと申告されました。
それも限りなく4に近いステージ3。

ずっと好き勝手に生きていた父。

何度も死んでしまえばいいのにと
心の中で思ったことは数知れず。。。

でも、いざ本当に目の前で起きると
どうしようもないほどに悲しくて
たくさん泣きました。

ただ父には言いませんでした。
言えませんでした。

姉もちょうど妊娠中だったので、
母体に負担がかかると危険かと思い
姉にも伝えることは一切しなかったのです。

身内には一切言わない・・・
そう決めたのにガンなの?と何度も
聞かれ、その度に「違う」と言い張るのは
とっても苦しかったです。

この言えない苦しみも
一緒に請け負ってくれた主人。

この人がいなかったら、わたしは
たえ切れずに喋ってしまったか
逃げ出していたかもしれません。

大変な時こそそばにいてくれる人
そういう人がいることこそが
幸せなのだと、感じる時期でも
あったと思います。

◆主婦から主夫へバトンタッチ 

1人で住んでいた父の
マンションを引き払い荷物は全て
わたしの家に運び入れました。

主人と相談をし
私が父親の看病しながら
水商売を続ける。

自宅には毎日帰ることが
できなくなるので、
子ども達のことは主人がみる。

ということが決まりました。

2人目の子は首がようやく
座った頃でした。

私は病院の付き添いと
水商売の掛け持ちをする毎日。

主人は家の中で2人の子どもの
子育てを一生懸命頑張りました。

2番目の子の初ハイハイも
初1歩も、主人からの報告でしか
知りません。

見れなかったのは少し残念ですが
主人は見れたことが自慢のようなので
ヨシということにしましょう(笑)

父の手術は合計4回
あばら、お尻などの骨を顎に移植
「骨に血が通わない。」
「頬が腐ってきた。」
そう言われ手術を重ねるときの説明を
1人で聞くのは毎回耐え難いものが。

モルヒネを投与されていたので、
毎日のように幻覚を見ては
「●組が俺を殺しに来る!」と
大暴れをする父親^^;

4回目の最後の手術は、簡単で
骨を固定していたネジをはずすだけ。

「私も立ち会うから!」と
出産を終えた姉が意気込んで
一緒に手術の説明を聞きましたが
説明を受けてる間に脳しんとう・・・・

少しショックが大きかったようでしたw

ですが、医師や看護師、そして父が
「病人より弱々しくてどうするよ」と
笑顔がこぼれたのは、少し心が和みました。

9ヵ月後父は完全復活を果たし無事退院

荷物もあるので
そのまま一緒に住むことに。

昼間私も家にいるようになったので、
住んでいた団地の子ども達も
だんだんとなついてくれ、

子どもの問題行動についても
世話もよく焼いてくれていました。

思春期の子どもたちの相談や、
虐待される子たちの逃げ場所に
いつの間にか、なっていました。

近所から札付きと言われるような
子どもたちでもさえも、
私たち夫婦の話は素直に聞いてくれたので
自治会でも副会長をお願いされたりもし
楽しかったのですが、

ある年の冬休みの間に突然の火事で全焼
別の団地に移り住むことに
なってしまいました。

父は再び1人で生活すると言い残し
さっさといなくなりました。

父が入院中に、離婚した母親が
探して訪ねてきたとの連絡が。

すぐ姉にも連絡を取り
3人で会いましたが、
次の日に鹿児島に帰った母。

それ以降8年間ずっと電話、手紙などの
やり取りをするたび
「鹿児島においで」と
誘ってくれていました。

その間に3人目も生まれ、
私も水商売をすっかりやめ
パートで飲食店に勤めておりましたが、

1番目の問題行動は
年々エスカレートしていくばかり。

以前の団地で近所の子ども達の
相談相手や手助けをしていたのを
児相や保健師さんが、なぜか知っており

この時の団地にいる問題のある家庭への
声かけや手助けを頼まれるように。

●パートから帰ってくるときに、
その家に寄ってみる。

●菓子パンとカップラーメンで生活する
不登校児のご飯を作ってあげる。

●「食べてくれないから」と
ご飯を作ることを放棄した母親に
ご飯の作り方を教える。

子育ての相談を受ける。
などのことをしていました。

ですが逆に1番上の子と、
その不登校児が一緒に家をを出て
何日も帰らないなど、
人まで巻き込む自体になり、

担任からは、
「悪いことは言わない、このままでは
一家離散することになるから、
1番目を施設に入れて手放しなさい」
とまで言われるようになりました。

もちろん承諾なんてできません。

できるわけがありません。

この子を、どうにかして
自分の手で社会へ送り出す!

そのためにも
隣の家まで距離があるような
田舎へ行きたいと思うように。

下の2人の子ども達もアトピーで
汗をかく夏は特に
痛がって夜通し泣き続ける日々。

ますます空気のおいしい田舎への思いが
募るようになった時に

母親から「鹿児島においで」と再び
声がかかったのを期に
「鹿児島に移り住みたい」と主人に
話したところ

「子どものためにも、お前のためにもいいと思う」
と言ってくれて
29歳の12月鹿児島に移り住みました。

 

◆痛みと我慢の生活 

母の家は徒歩2分のご近所さん

「鹿児島に行く」と伝えてすぐ
私たち家族の住む家を探して
準備してくれていたのです。

引っ越してすぐから
ガソリンスタンドで働いてたのですが、

30歳を迎えようとしているある日
朝出勤しようと立ち上がったところ
足に激痛が走り
そのまま倒れ込んでしまいました。

電話まで、はって移動し
母に助けを呼びました。

その時に診断されたのが
「臼蓋形成不全症」という
足の付け根の骨の病気。

そうなって初めて
私が生まれて1ヶ月検診の時に
改廃制限(?)だと言われ
このままじゃ歩けなくなると言われ
病院に通っていたとを
母から聞かされました。

微かに残っている幼い頃の
記憶の中に「病院嫌い」があります。

この話の中で、通う病院では
大きな注射を毎回打っていたと
聞き、嫌いの原因はココだったのかと
やっと知るきっかけになりました。

それから5年は
どうしようもない痛みと闘う毎日で
泣いて生活しました。

子どももいるのでご飯も洗濯も
しなければいけないと
我慢して立ち上がり
あとで通常以上の痛みで泣く。

子どものお弁当を頑張って作っても
立っていられる時間が短く
かばいながら作るので
登校に間に合わない。

できあがっても
持って学校へ向かいたいのに
痛みで動くこともままならず・・・

子どもに悲しい思いを
させたこともあります。

そんな毎日が苦しくて
情けなくて
家族に申し訳ない気持ちもあり
何度も死のうと考えたことも

でも
鹿児島の田舎地区では仕事もないと
派遣で他府県に出稼ぎに出ていた主人が
派遣切りもあり帰ってくることに。

帰ってきた主人にも
満足に家事もできない申し訳なさで
離婚を何度か切り出しましたが

即答で「却下!」と一刀両断され
家族は支えあってこそ家族だろと
私を優しく叱られました。

その度に、この人で良かったと
心の中で感謝しきりw

その後
母の住んでた賃貸の民家が古くて
崩れそうになったのをきっかけに
母と、母の再婚相手も一緒に
生活をするようになり
現在も一緒に生活をしております。

再婚相手の方は一緒に生活を始める
数年前から介護が必要になり

母1人だけでは大変そうだったので
同居を期に私もお手伝い。

ですが、同居を始めて8年して
年末に他界。

主人は派遣切り以降
こちらで就職できた工場も
やはり子どものことが原因もあり
クビになってしまいそれ以降は
2年ほど求職中でした。

私は足の痛みもだいぶ慣れたので
宅配なら自分のペースでいいかなと

乳酸菌飲料の某大手会社に働きに出ることにし
「40万市場を作る!」と
広げた市場だからと任された区域を担当。

前任者は20万達成と言われてた場所で
40万を達成できたのですが
無理がたたりあえなく入院。

その後も事務などで働いたけれど
すぐに立てなくなったり
免疫力が少ないために病気をもらって
すぐに入院になってしまうのでクビに><

◆子育てが難しいのには理由がありました

1番目は19歳で結婚し
1人子供が生まれたのですが、
毎日のように夫婦で喧嘩が絶えず、
子どもが生後半年を迎えた頃に離婚。

その頃3番目の子、2番目の子に
発達障害があると診断され、
3番目は1番目と同じような
問題行動ばかりをするので
1番目も同じ発達障害だったのだと
知ることになりました。

1番目の子が問題行動を起こし
悩んでいた頃には、たぶん
この発達障害という名前は
なかったのかもしれません

「少し普通じゃない子」程度の解釈で
見過ごされてきたのだと思います。

小学校入学直後から、鹿児島に引っ越すまで
ずっと児相にはお世話になっていたので
発達障害という病気があったのならば、
すぐに分かったハズです。

児相にはずっと
お母さん、お父さんには何も
問題はありません。

1番目本人の自覚の問題だと考えます。

そう言われ続けたのですから。

1番上は離婚後から新しい彼女ができ、
とても良い方向に
導いてくれているようなので、
彼女に任せきりになっています。

年齢的にはしっかり大人の年齢なので
親がとやかく言うこともなくなり

聞かれた時には、意見だけ伝え
その後の判断には踏み込んでいません。

見るからに間違っていると思うことは
大人同士の会話として
向き合って話はしますよ。

2番目は高校卒業後、
工場に就職できたのですが
コミュニケーションがうまくできず、
ストレスを抱えやめてしまいました。

父親が登録している派遣の会社から
声をかけてもらって
父親の怪我の入院をキッカケにして

「お父さんの代わりに私が支えるから!」
と働き始めました。

現在は、派遣で行ってた出先の会社から
再三にわたってオファーがあり
派遣から社員に切り替わりましたww

小中学生の頃は人とうまく付き合えず
たくさん苦労をしていたようです。

せっかくできた友達とも
「自分の時間は邪魔されたくない」と。

休憩時間に会話しに来てくれても
「私は今は本が読みたいの」と
会話を楽しむことも難しかったみたい。

友達同士で連れ立って行く
お付き合いトイレについても
「意味がわからない」と。

「友達は大切にしなきゃ」と言った
私の言葉にも
「友達って必要なの?」と
返事をしていました。

高校入学後は、友達って必要なんだと
自分で自覚できることがあったようで
自分なりに努力を重ねたみたい。

「こういう子だから」とありのままを
認めてくれる友人たちと親睦を深め
卒業してからもずっと、事あるごとに
集まって楽しくしているみたいです。

3番目は1番目がしてきた事柄に
とても似たようなことを幼い頃から
続けてきており、
小学生では問題児と言われ
学校から親が呼び出されることも
しょっちゅうありました。

そんな中、1人の先生がいつも
気にしてくれて、心配してくれました。

「軽い自閉症があるかも」と言われ
それがきっかけで、1番目の子同様に
私は児相へ相談の電話を入れました。

何度も通い検査もした結果
発達障害ということが判明したのです。

そして今後の生活について話し合い
その結果、この子のためには
沢山の人と関わって相手の気持ちを
汲み取る訓練が必要ということに。

目に見えない気持ちを感じることは
この子達にとっては難しいことです。

だからこそ、将来社会に出ていくために
状況を見て判断できるように
見えない気持ちは感じることはできない
けれど、どうすれば良いのかは
訓練で覚えることができる。

そのためには生活の中に他人がいつも
近くにいる環境が望ましい。

という児相の判断でした。

もっと年齢が低ければ自宅でじっくり
ということもできたそうですが
思春期を迎える時期に入った年齢は
早急に訓練しなければ

社会に出る年齢に間に合わない
という話でした。

中学に入ると同時に情短施設
他人との関わり方の勉強のため
鹿児島市内の方へ。

※参考
情短施設=情緒障害児短期治療施設
軽度の情緒障害を持つ児童を短期間入所させたり、
通わせて情緒障害を治したり軽減させたりすることを
目的として1961年に児童福祉法第43条に基づいて作られた施設。
情緒障害児短期治療施設は
「児童心理療育施設」「児童心理治療施設」「情短施設」
とも呼ばれる事があります。
平成27年10月現在で全国に43施設有ります。
情緒障害児短期治療施設の主な対象者は虐待を受けてた事により
心理的外傷を受けた児童、引きこもり・いじめ・不登校などで
心理治療が必要となる児童が対象。
主な利用者の症状には情緒不安定、PTSD、パニック、落ち着きの無さ、
暴言や暴力、他人や大人への反抗、緘黙などが見られています。
利用の際には児童相談所や子供相談センターなどで
情緒障害児短期治療施設の利用が適当であると
判断された場合に措置として決定を受けます

毎日勉強は施設内で。

中学3年の受験のために
市内では偏差値が高いから
難しいだろうということで

こっちの高校ならば受験できると
判断されたのと、

情短施設では内気な子ばかりなので、
「もっといろんなタイプの人との関わりも
必要」とのことで

中3からこっちの養護施設に移転し、
地域の高校に通っています。

学校の長期のお休みは毎回帰省と、
時々面会に通うように。

親元を離れていることについて。

親から見捨てられた。とか
僕だけ入れられてーと卑屈になったり
恨んだりしていないだろうか?

高校へ入学したあとに
「正直に話してほしい」と
聞いたことがあります。

運動会やイベント。
卒業式や入学式とか全部
「親同伴OK」と言われたものは
全てに参加してくれて、

帰省の日数は、○日~○日ってあれば
削ることなく、全部の日程を選んでて

それ以外も「電話する」といえば
必ず時間に待っててくれて。

施設には1日も帰省のない子もいるし
全部をしてくれる親なんていないんだよ。

それだけ見ても全然違うから!

帰省のたびに好きなものが食卓にあって
一生懸命準備しててくれて、
見捨てられてるとか、恨んだりなんて
するわけがないよ。

「訓練するために、ソコにいるんだよ」

「1つ1つ解決していこうね」

そう言い続けてきたことが、きっと
根底に残ってくれている・・・

そう実感できる言葉でした。

長年、接客業・サービス業をしたから
言葉の大切さ。
対話の大事さを知っています。

鹿児島に来てから16年になります。

病気が引き起こす様々なことで
長く続けられたようなものはありません。

◆それでも光は見失わない

ずっと子育てにほんろうされてきたので、
趣味といえるほどのものはありませんが

猫は大好きで1番目の子が
幼い頃からずっと猫がそばにいます。

鹿児島に来てからは犬もいます。

今いる犬は3代目になりますが
どの子も猫とも仲良しで
痛みと戦ったり、寝込んだりする私の
癒やしの存在になっています。

今は、一個人がメディアを持つことが
可能な時代です。

インターネットというツールを使うことで
私のように出かけることが困難な人間でも
たくさんの人とつながることができます。

私のように自身が障害者であり
発達障害の子どもを3人抱える

そんな母親は希だと思いますが、

こんな私の姿を通して
主婦やお母さんが毎日抱える
ストレスなどを少しでも
軽減させるお手伝いが
できたらいいなと思っています。

そんな思いがきっかけで始めたブログ。

最初は愚痴をこぼす場所が欲しい
そう思ったのかもしれません。

ただ、率直に言葉にするのも戸惑い、
詩のようなものを書いていました。

子どもの行動に悩んでいる時

子どもの心に問いかける時

ちょっとした優しさに感謝した時など

様々な気持ちを表現していると
たくさんの人が読んでくれるようになり
たくさんのつながりを持つことができました。

そんな中、何人もの悩める人たちからも
メッセージを受け取りました。

「私に問いかけてくれたみたい」
「私の話も聞いて欲しい」

私がブログに対してそうだったように
思いを文字にすること
それを誰かに聞いてもらうこと
たくさん抱える思いは吐き出すことが
1番の薬になるのだと知りました。

そして、話を聞いてくれる人がいる
それがとても勇気になること
希望が持てるようになるということ
笑顔になれるということを知りました。

そして今もこうして頑張っている私を
ネットを通して見ることで

「自分も頑張ろうって思えるよ」
「苦しくて耐えられないと思ったけど
もっとやれることがあると気付かされた」
と言ってもらえたことで、

苦しかった過去も
つらかった時のことも
悲しかった昨日も全てが無駄ではなかった
そう思える今日があります。

こんな体の自由がきかない私でも
誰かの役に立てることがあるのだと
教えてくれたのもネットのおかげです。

そして、ネットを通じて知り合った
かけがえのない友人たち。

欝病の女子高生がメッセージをくれてから
ずっと長い間やり取りをしました。

人より2年遅れてしまったけれど
無事に卒業をし、社会人になり
好きな人ができたときの報告は嬉しくて
私も感激しました。

その女性は、そのお相手とハワイで挙式
そして可愛い男の子のお母さんになり
とってもたくましくなりました。

高校生の時にその子のお母さんとも
メッセージのやり取りもはじまり

壊れかけていた親子の絆も
とっても太いものに変化していく姿を
文字のやり取りを通して
感じることもできました。

最終的に可愛い孫との時間が何よりも
幸せな時間という言葉を最後に
2016年5月お母様は
天国に召されていきました。

葬儀も終えてから報告を受けました。

でも、娘を殺して私も死のうと思うと
書いてあった最初のメッセージ。

山も谷も谷底もあったことでしょう

それでも人との出会い1つで
こんなにも変わることができるのだと
私は知っています。

悩んでいるお母さんたちがいます。

お母さんが暗い顔をしていると
家族皆が暗くなることも
私は身を以て体験したので
とてもよく知っています。

そんなお母さんが1人でも多く
笑顔になってほしいと願っています。

そしてそのために
私を利用してくれたらと思っています。

過去の私と同じ気持ちの人を
見過ごせない。

見過ごせるわけがないと思います。

◆よろしくお願いします

人は1人では生きてはいけない
よく聞く言葉ですが
実際そうだなと感じます。

私の生い立ちを聞いた人は全員
「ドラマになるね」
「映画が3本くらい作れそう」
「小説にしたら売れるかも」
なんて言ってくれますが
私自身は「目指せ平凡!」です。

ただ問題として思うのが
平凡がどういうものなのか
実際、体験をしていないから
ワカラナイということです(笑)

でも、私は諦めるという言葉も
知らない人とも言われます。

実際、繁華街で働いていた時も
働いていたお店が潰れたときに
別のお店にハンティングされたので
そこに働くことにしたのですが、

入店直後はハイヒールが飛んできたり
接客中にも関わらずお店の女の子からお菓子を
投げつけられたりということもあり

店主の話では大きな店にいたことが
やっかみ(?)などが原因とのこと。

一緒に移転してきた子たちは
逃げるようにしていなくなりました。

主人も「やめたら?」と言いましたが
向こうから挨拶するようになったらね
と返事をして残り続けました。

そして宣言通りに
古株の人達と仲良くなってから
「やめまーす」ってやめました(笑)

人は私のことを強いと思うみたいです。

でも実際は全く違って

さみしがり屋だし
入院中はホームシックになるし

2番目、3番目の出産でも、
家が恋しくてどうしようもなくて
7日間入院って言われているのに
どっちの時も5日目には退院しました!

だけど「やる」と決めたらやるんです
どうしてなのでしょうね
自分でもわかりません(笑)

強い部分も弱い部分も
変な部分も真面目な部分もあるんです。

たぶんきっと
誰もが同じように色んな部分があります。

それを正面から受け止めているだけ
なのかもしれません。

ここまでかなと思うことでも
過ぎてしまうと
「もっとやれたんじゃないか?」と
感じることがたくさんあった気がします。

後悔しないように生きたい
という気持ちもあるのかもしれません

あまり自由にならない身体であっても
できることは、まだまだあるはず

不自由があることを嘆くよりも
できることを精一杯やり尽くしたいと

思うことができるのも
この身体のおかげなのかもしれませんね。

そういう意味でも
その時は不幸だと思いそうなことも
別の角度から見れば
良いことにつながっているかもしれない。

そうとらえることも
時には必要だったりします。

子ども達に発達障害があると分かってから
発達障害はどういうものなのか。

どんな分類や特性があって
その時々の対処するには
どうしたら良いのか。など

この子達がしっかり自分の力で
生きていくためには、
どうしてあげることが大切なのか。

情報過多のこの時代
何が必要で
何が不必要なのかが見えにくいです。

でも、それを見極める目
今後を見通すための知恵があれば

子ども達にこれから先の道を
示してあげること
ができます。

自分の大切な家族を守ることができます

それを今後も見続けていきたい
そしてそれを伝えていきたい
そう思っています。

こんな山本あすかですが
今後ともよろしくお願いします。

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